202003/15
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知ることは、学ぶことと見つけたり #フリフリ004

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2020.03.15

知ることは、学ぶことと見つけたり #フリフリ004

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知ることは、学ぶことと見つけたり #フリフリ004

※「フリーランスのフリートーク」とは、スタッフが独断と偏見と気分で綴るコラムです

株式会社フリーランスで、常務取締役という昭和バブルのおじさん的肩書きを持ちつつ(はい、セカンドバッグを小脇に抱えて練り歩く御仁をご想像ください。バブル世代の働き方には共感できませんが、バブルが産んだサブカルチャーにはとても親和性の高いアラフォーです)、広報・PR業務を束ねる「Monkey Child Products」という部署をまわしております、後藤と申します。

26で社会人になってから、気づけば今年で13年目になります。
一般的な人よりもキャリアが遅い割に、様々な経験を積ませてもらい、いつしか独立して、曲がりなりにも会社の一経営陣として活動する日も増えてきました。
しかし私の中では、大学受験に失敗し、就活をペンディングさせるために大学院まで進み、結局就活らしいものをしないままにリクルートに拾ってもらったあの時から、何も変わっていないように思います。

働くということは、対価を頂くこと。
その営みは、それ以上でもそれ以下でもない、というのが私の今の心持ちです。

独立して今年で6年になります。
どの企業に属していた期間よりも、フリーランスの期間が長くなりました。
気づけば、本当にあっという間に2020年を迎えました。
2000年なんて、ついさっきのように思うのですが、大学に進学したのが2000年の4月ですので、21世紀に入ってからの私の活動は、まだまだ社会人真っ盛りとは言い難い中途半端な時間しか経過していないのです。

近年、「何かのスキルを習得するには、10,000時間あれば稼げるようになる」といった文脈の記事を見かけるようになりました。
1日8時間労働で1か月20日働き、残業が40時間とすると1か月に200時間。
1年で2,400時間。
5年で12,000時間を突破します。
つまり、何かのスキルを身に着けるには、社会人として働いた場合、最短で5年あれば独り立ちできることになります。

私は2007年4月のリクルート入社から始まり、サラリーマンは2014年の4月まででしたので、7年でフリーランスになった計算になります。
それまでずっとメディアで企画・提案営業と制作をしてきたということもあり、気づけばPR周辺のプロデュース、ディレクション業務をしていますが、正直「こうなりたい」と思って今があるわけではありません。
幼い頃は、小説家になると思っていましたし、今でも海辺の静かな洋館で原稿を書く日々に明け暮れながら、編集者さんに「原稿はまだか」とせっつかれる生活を夢想することがあります。

しかし、実態は、せっつく側(笑)。
拙父は60の手習いで細々とやりたかった小説家業をしていますが、その父に育てられ、オリジナルの原稿用紙に作文を書き、学校の提出物の作文に父からダメ出しをされてはベソをかいていた日々からすると、確かに文章を書く仕事には就きましたが、プリミティブな想いに触発されて、ゼロからストーリーを構築する側の人間には向いていないと重々承知しています。

前置きが長くなりました。
(ここまで前置きだったのかよ、と思われる方、すみません、後藤あるあるです)
「書く」とひとことで言っても、何を書くかのゼロイチの作業が父と私ではまったく異なります。
父は社会にある歪みや一瞬の気づきを、「物語」というお化粧で世に出すことに喜びを感じています。
私は、企業の「想い」や「商品・サービスの魅力」、映画や舞台、絵画展などの持つ「ヒストリー」「フィロソフィー」を、ときに企画という形で実現し、時に文章という形で世に放ち、時に誰かに届く別の形を考えることが仕事です。
つまり、ゼロイチ部分は私ではないのです。

様々な捉え方があると思いますが、私にとって、このゼロイチで何かを伝える作業こそが、アートではないかと考えています。
いいか悪いかではなく、「伝えたい」という初期微動。
私には、基本的にこれはありません。

とはいえ、仕事で様々なことを知り、己の無知を再認識し、その業界について可能な限り徹底的に勉強する、という姿勢を貫いてきたお陰で、「個人的な興味ではなく、仕事として得た知識」が毎回付くようになりました。
不動産業界の仕組み。
産婦人科業界の今。
美術館で展覧会を開催するためのノウハウ。
舞台芸術に携わる人々の想い。
行政的課題を一般企業がどう捉えて協業するのか。
地域振興における民間主体の活動にお金と時間と労力を費やす人の見ている未来。
「2020年教育改革」の課題。
SDGsの本来の意味と日本でのともすれば曲解とも取られかねない文脈とを埋める映画のプロモーション。

この仕事を続けている理由は、おそらくこうした「自分ではたどり着くことのない世界」に足を踏み入れることのおもしろさだと思います。
そしてそれらは、それぞれに独自の意思を形成しながらも、知れば知るほどに相互に関連していますし、その繋がりがみえてくることで、より理解が深まります。

知れば知るほど、知らないことがわかり、学ぶ意識に変わっていく。
日本は学生が終わると「学ぶ」機会が極端に減ります。
しかし、社会人になってからのほうが、学んでいるとしみじみ思うのです。そして本来は、そうした「学び」のための基礎学力をつけるのが、義務教育+高校、大学での学びなのではないかと。

ここまで書くと
「お前なにえらっそうに言ってんだよ!」
という声が聞こえてきます。
他者というより、自分の中から。
おそらくですが、これこそが、学びをストップさせている発想だと最近気づきました。

「〇〇さんに比べたら、まだまだ全然できていない」
「あの人より、自分のほうが知っている」
日本人は、とかく他者との比較をしがちです。
しかし、そこに相対的な差異はあれど、本人が「何かをしている」という行動に対し、否定の言葉をかけるのは違うのではないかと思います。

「人は人、他人は他人。」
幼い頃から私に何千回とこのフレーズを口にしてきた拙母が、実は一番他者と比較する人生を歩んでいるということが興味深く、その点において人間が内包する矛盾のおもしろさでたまに笑ってしまう娘なのですが、「あ、同じようなことあるな」とお思いの方もきっといらっしゃることでしょう。
そしてこれは地域柄によってその強さにグラデーションがあるとも思います。

長くなりました。
後藤は今日も明日も、知ることを恐れず、無知と対峙し、ひとつでも多くの学びを獲得しながら、その知と学びを、クライアント様へのご提案に変換できるよう頑張ろうと思っています。
最後の地域柄、世代間の価値観の相違、ここまでくると書きたくなる九州という島が持つ男尊女卑のお話などは、また別の機会に。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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