株式会社フリーランスについて

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はるか昔、人は30あまりの「手に職」を持って生計を立てていたと言います。お百姓さんは稲が育つ間、漁師さんの干物作りを手伝ったり、隣の村の井戸掘りを応援したり。一人ひとりが手に職を持ちつつ、複数のアルバイトを掛け持ちしながら持ちつ持たれつの関係で互いに協力し合っていたのです。

鎖国が解け、世界に目が向いた日本は、数百年のうちに様々な側面で技術や文化が進んでいることを知り愕然とします。そして欧米の先進事例に学び、日本古来の風習や性格を大切にしながら、独自の文化と朴訥な精神で研鑽してきたのです。

ときに戦争に向かい、痛い目にも遭いました。傷つけあうこともありました。しかしその後に発生した冷戦による特需で、日本は高度経済成長期に入ります。サラリーマンという仕組みが社会構造として定着し、終身雇用制のもと、頑張って働く夫を支える専業主婦がスタンダードとなっていきました。

──そして、好景気のままバブルに突入し、一気に崩壊。

サラリーマンの終身雇用は過去の幻想。政府は「働き方改革」と称し、生産労働人口の減少や2025年問題、2040年問題を目前にその残骸に苦しんでいます。その一方で、世界はIT革命によりボーダレス、シームレス、タイムレスな時代に入り、効率化と情報共有のハイスピード化が加速し、もはやこれらは常識となりつつあります。

世界で同時多発的に同じような技術が生まれても成り立っていた「競合の時代」は終わり、どこかで誰かが生み出した技術が、時を待たずして世界のインフラになる、つまり似たような技術の追随が生まれにくい現在。これからは、誰かが生み出した技術を活かして同じ目的の人や企業が一緒に課題に取り組む「協業の時代」になりつつあると、私たちは考えます。

バブル期にもてはやされた「技術立国日本」はもはや幻想に過ぎず、労働力の源泉であった団塊世代はすでに引退、教育分野も諸外国に遅れを取る中、我々日本人が誇りを持てるもの。それは、「文化」なのではないでしょうか。

欧州の例から分かるように、文化とは大きな付加価値を産みますが、一朝一夕で築くことのできるものではなく、ましてや容易に真似できるものでもありません。では、世界最古の現存する王朝を持つ日本の文化はどこにあるのか。それは、各地に根ざしその文化を代々継承する地元に根付いた小さな会社にあると、私たちは考えます。
そして今、日本の未来を支えるであろうそれらの会社は、空前の人手不足に悩まされ、旧き佳き文化が次々と失われています。

※フリーランス的「本懐」とは、スタッフ、パートナーそれぞれが、「何故我々は一つ所に集い、共に社会に対して事を成そうとしているのか」、その共通認識を確認するため、我々の原点となる想いを言葉で表現したものです。

楽しい生き方を追求するため
尊重すべき6つの価値
(本懐の実践のための行動指針)

無数の情報を創意工夫で組み合わせ、行使できる状態を知識と呼ぶ。
知識という無形のものに価値を認め、敬意を払おう。知識に貴賤はない。
温故知新を実践しよう。
先人たちの尽力の結果今がある、ということを意識し、先人の軌跡に敬意を払おう。
リスクを受け入れ、責任を持つことを決断したその心意気に敬意を払い大いに推奨しよう。その代わり、出た結果に対しては責任を持って真摯に受け止めよう。
倫理観が高いチームにルールは要らない。ルールを作ることは本質的には悲しいことだと理解しよう。儲けを考える前に、人としてどうか、という基準をまず持とう。
新しいものは、理詰めではなく、独創的な感性が生み出す。
感性を生かすための土台として、理論を体得し実践しよう。
全ての人、ものが、存在すること、そのこと自体にまずは感謝を。
全ては存在への感謝を土台として成り立つ。
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製造業の実家に生まれたものの、学者の道を志す
私は千葉の片田舎でポリ袋の製造を行う小さな工場を経営する父と、専業主婦の母の間の長男として生まれました……
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製造業の実家に生まれたものの、学者の道を志す

私は千葉の片田舎でポリ袋の製造を行う小さな工場を経営する父と、専業主婦の母の間の長男として生まれました。

創業者である祖父は小学生のころ身一つで山梨から東京へ上京し、技術を磨き、その技術力をもって業界のパイオニアの地位を確立し、約50年続く今の会社を築き上げました。
当時ブロードバンドや携帯電話が普及し始め、ITビックバンにより社会の在り方が変動するころ、父は祖父から跡を継ぎました。生粋の技術者であった父としては、経営という職務は困難を極めたと思いますが、その人柄の良さとだれよりも献身的な性格でその責務を背負い、会社を存続させてきました。

一方、親の心子知らずの私は、学生の時分、「日本に貢献できる仕事をしたい」という漠然とした想いと、科学者であった母方の祖父の影響を受け、地球環境問題の研究に取り組んでいる九州大学工学部エネルギー科学科に進学しました。
学年が進み研究室に配属される際、数ある日本のリスクの中でも最たるものであったエネルギー自給率の問題に取り組みたいと考え、原子力発電の研究の道を選びました。
当時の数字で日本の食料自給率が約4割でそのリスクが叫ばれる中、エネルギー自給率に至ってはその1/10の約4%であり、日本の国際競争力を押し下げる大きな要因でした。

研究室では特に際立った成果を出せたわけではありませんが、使命感をもって研究に取り組むことができていたと思います。特に自分の研究をわかりやすく人に伝えることにやりがいを感じ、国内、国際学会で優秀講演賞を複数受賞しました。また、研究室にある様々なIT機器や、学内のスーパーコンピュータの使用管理も引き受けていました。結果的にそれらの経験が今の事業の技術的基盤となっております。

3.11で変わった人生観

しかし、研究に取り組む中、どこか本気で取り組めていない自分がいました。当時はその理由に皆目見当がつきませんでしたが、今思うに、労せずすべてを与えられた環境に対する甘えと、原子力の研究者しか道がない、そこから反れたら人生終わり、という的外れの強迫観念によるストレスが原因だったように思います。そんな中、東日本大震災で自分の研究を根底から揺るがす大事故が起こり、自分の存在意義について根本から考え直すきっかけになりました。震災で起こった原子炉の事故は、当時自分は論文の冒頭で決まり文句のように「現実にはあり得ない事故」と書いていたものそのものでした。もちろん研究者として様々な技術的背景は学んでいたので、自分の研究そのものが即座に否定されるというわけではないことを頭では理解していましたが、それよりも、本気で取り組めていない自分が深く考えずそんな文章を書き、たくさんの恐怖を与えたこの大変重要な問題にこれからもかかわっていくことに大きな矛盾を感じました。

無責任とは思いながらも、その矛盾に耐えられなくなった私は、ほどなくして研究室から離れることを決心しました。同時に、原子力の分野以外でどこかの会社に所属することもイメージできなかった私は、まずは自分自身で生きるための力を身に着けようと、恥を忍んで父に頼み込み、経営の勉強をさせてもらうことにしました。

会社では、父はほとんど私に仕事の指示をすることはありませんでした。そんな中、私はまずこの会社を理解するため、会社の製品やその原料、製造に使う機械について、手当たり次第に父や従業員さんたちに聞いて回りました。皮肉にもこれが私が初めて父の会社に興味を持った瞬間でした。

父について営業に回ったり、機械の操作方法を教えてもらい作業をしたり、経理の勉強をしたりと、様々なことを経験する中で、この会社の中で自分の強みを生かそうと、研究室で身に着けたITの知識をもとに、会社のIT環境の改善プロジェクトを企画し、それに取り組み始めました。

小規模事業者が抱える課題を実感した実家での仕事

そこで、個人事業を創業するに至った重大な一つの事実に気が付きました。
それは、「情報格差が生み出す悲劇」

例えば、まったく更新をしていない、古いデザインのホームページに、高額な月額支払いしていました。ホームページからの新規案件はほぼないにも関わらずです。私は直ちに契約をやめさせ、安くホームページを作り直し、ランニングコストをほぼ0にしました。

例えば、その大半がFAX広告を吐き出す古い複合機に、高額な月額支払いをしていました。私は直ちに契約をやめさせ、安くて最新の複合機を手配し、メールでFAXを受信できる状態を作り、月数万円のコストカットをしました。

例えば、いつも「言った、言わない」「聞いた、聞いてない」という言葉で会社が埋め尽くされており、その確認のために多大で無駄な時間をかけていました。私は直ちに主要社員全員のチャットグループを作りました。それからは情報の確認をすぐにチャットで確認できるようになり、無駄な時間がずいぶん削減でき、同時にストレスも削減できました。

これらのことは、誤解を恐れずに言えば、作業だけを見ると実に大したことないものです。誰でもできます。ただ、情報がなかっただけ。

この頃には、学生の時には見向きもしなかった父の会社の持つ唯一無二の技術、そしてそれをこの時代まで継承してきた事実に大きな尊敬の念を抱いていました。

こんなことで、尊敬すべきこの会社が、貴重な経営資源をすり減らしてきたのかと思うと、非常にやるせない気持ちになりました。この会社に出入りしていた様々な業者さんたちは、誰もこんな簡単なことを教えてくれなかったのか、と失望の念も覚えました。

実家のような企業を救うために

同時に、同じように気付かずに体力をすり減らしている父の会社のような魅力ある会社がほかにどれだけいるのだろう、そういった会社は10年後、20年後に一体どうなってしまうのだろう、というようなことを考えるようになりました。
もし自分が、そういった会社に何かできれば、それはもしかしたら大きな社会的意義があるのではないか、その先には、もしかしたら本当の意味での父の会社への貢献があるのではないかと。

それからは、経営の勉強と父の会社の環境改善に取り組みながら、父の会社のような魅力ある小さな会社を自分のできる限り一社でも多く手伝いたい、という想いが強くなりました。
まずは自分の得意なITの分野でそれに貢献すべく、資格の勉強をしたり、週末を利用してパソコン修理窓口でバイトしたり、ITの知識をビジネスにするための準備を始めました。

そして、父に自分の想いとともに会社を離れることを伝え、創業の地を土地勘がわかり創業機運も強かった福岡に定め、1年の準備を経て福岡に戻り、2015年3月に「小さなオフィスのシステム担当“機人”」を創業しました。

もともと研究者でビジネスの常識がなかった私は様々な失敗を繰り返しますが、幸運にも出会いに恵まれ徐々に事業の体をなすようになりました。

創業して気づいた「フリーランスが受けている不遇」

そこで、今度は会社を設立するに至ったもう一つの重大な事実がありました。
それは、「フリーランスの功罪」

自身もフリーランスとして活動する中、実に多くのフリーランスの方々と出会いました。
その中で、次のことを確信しました。

フリーランスの「功」-自立できるほどの高い能力を持ち、さらに事業主であるため事業主の気持ちがわかり、そして時間に縛られない、小さな会社にとって救世主となれる可能性を秘めていること。
フリーランスの「罪」-刹那的であり、自分の価値を次代に伝えようとする意思がないこと。また、それが当然であるとの諦めを持っていること。

私はこの事実に大きな希望を見出しました。もしこのようなフリーランスの「罪」を洗い流し、未来と希望にあふれる働き方を提案しながら、「功」を際立たせることができれば、いったいどれだけの未来が、そしてその先にある幸福が生まれるのだろうと。

フリーランスによる、フリーランスと小規模事業者のための、フリーランスが社会で機能する未来を模索する会社に

そのような想いが具現化したのがこの会社「株式会社フリーランス」であり、掲げるビジョン、ミッション、バリューです。
魅力ある小さな会社が一社でも多く長きにわたって価値を発信し続けることは、日本が100年先でも日本固有のほかに変えられない価値を発信していくために不可欠な要素であり、それは世界全体の幸福につながると確信しております。

私は欲張りな人間です。祖父が創り、父が継いだあの小さな会社だけでなく、同じような魅力ある会社すべてに未来を作るお手伝いがしたいです。
ですがそれは到底自分ひとりの力で成し遂げられることではありません。
なので、この理念に共感してくださる方がいらっしゃれば、誠に身勝手ではありますがぜひお力をお貸しいただけないでしょうか。

すべての人が100年先も笑って過ごせる未来のために。

株式会社フリーランス 代表取締役 鈴木 貴人

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